ホーム > 長谷検校と九州系地歌
※この文章は、京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センター久保田敏子教授にご執筆いただき、これまでコンクールのプログラムに掲載したものです。
長谷検校幸輝(1842-1920)は、熊本で生まれ活躍し、後に東京に出て九州系地歌を全国に普及させた重要な音楽家である。しかし、長谷検校に関する資料は少なく、それすら一般には入手が困難である。さらに、それぞれの執筆者が検校の弟子であったり、検校の事情に詳しい人であるにもかかわらず、記述が微妙に異なっている。
そうした状況をふまえ、可能な限りの資料を総合整理した結果に基づいて、長谷検校の生涯や業績、九州系地歌の流れを順を追って整理してみようと思う。
ところで、長谷検校という時の「検校」は、正確に言えば江戸時代の男性盲人の職能団体である当道座での検校ではない。しかし、以下のことから、敬意をこめて長谷検校と通称している。当道座は明治4年(1871)に廃止され、その時、長谷検校はまだ20歳代の青年で、組織での地位は「勾当」であった。その後、明治末期に彼が上京した折、彼の業績を高く評価した東久世伯爵から「検校」の称号を与えられ、さらに、大阪で発足した全国レベルの地歌箏曲の団体「当道音楽会」から、日本一の名手として、明治44年(1911)に「名誉大検校」の称号も与えられた。以来、人々は敬意を込めて彼を長谷検校と呼んでいる。本稿でも、区別の必要な時以外は、長谷検校で統一する。
長谷検校は天保13年(1842)11月13日、熊本市鍛冶屋町に生まれた。父弥平太(やへいた)、母ゆい。幼名は半三郎。弘化2年(1845)頃、天然痘で失明。嘉永元年(1848)春、近所の本田雪之都(ゆきのいち)に入門。雪之都は大阪の豊賀(とよが)検校春寿一(1789-1853)の弟子の寺崎検校の門人で、手事の名手として知られていた。2年後に「輝香」の芸名を許される。入門当初の様子について、「不器用だったが、いったん覚えると忘れることがない」人だったと正派邦楽会の設立者者中島雅楽之都(なかしまうたしと)は記している。逆に、大変器用で、母の調弦した三味線が狂っていると指摘できるほどの優れた耳の持ち主であった、との話も残っている。
安政2年(1855)雪之都が病没。遺言により簾美之都(すみのいち)(変体仮名で壽美之都、須美之都とも表記)勾当に転門する。その頃、簾美之都は当道座の地方長官にあたる座元をしていた。長谷検校はここでもすぐに才能を認められ、代稽古もさせられた。安政6年(1859)には免許皆伝となり、簾美之都(すみのいち)(変体仮名で美須之都とも表記)と改名した。
長谷検校が受けたプロ教育は徹底していて、厳しい寒稽古や真夏の流汗稽古はもちろんのこと、毎朝、石の上に正座し、頭に満水のたらい盥を乗せて三味線を弾かされたり、精神修行のために家々の軒先を回って、三味線の門付け演奏もさせられたようだ。
文久3年(1863)、たまたま久留米から熊本に出張していた宮崎勾当に教えを乞い、久留米にも出向いて修行を積んだ。宮崎勾当は宮原検校(1807-1864)の高弟である。宮原検校は当時、久留米藩主の有馬家から五人扶持を受け仕置役をつとめていた。京都の職屋敷でも重鎮で、石川勾当作曲の「八重衣」を高く評価し、当時最高の箏の名手である八重崎検校にもうまくもちかけて箏の手を付けさせたことでも知られる。この宮崎勾当の奨めで、慶応2年(1866)、当道座の勾当に進み、長谷勾当幸輝一と改名した。「都」も「一」も同じで、当道座の中の系統を示す附加名だが、当道座解体後はこれをはずして「幸輝」となった。勾当受官の喜びを、検校は「あんな嬉しかったことはなかタイ」と、いつも頬を紅潮させて語っていたそうだ。
明治維新という時代の荒波は、明治4年(1871)に当道座が廃止された後の地歌箏曲家の身にも及び、生活に窮して寄席のような小劇場で、低級な恋愛を扱った小曲を歌っては、その日の衣食を凌ぐ状況もあったらしい。しかし、明治4年(1871)に当道座が廃止され、長谷検校が「幸輝」と名乗るようになった後も、彼の名声が衰えることはなかった。
元来、地歌箏曲は京大坂を中心とする上方が本場であったが、その本筋が九州にも伝わり、幕末には、長谷検校も若い頃に師礼をとった久留米の国崎勾当などの名手が多く活躍していた。長谷検校は明治になっても引き続き宮崎勾当に師事し、他にも、京都で鶴岡検校(当道座最後の総検校)の門で修行した熊本出身の杉谷検校や、時に応じて久留米の宮原検校門下の本田勾当らに師事し、苦境の中でも着実に研鑽を積んでいった。
西南の役のあった明治10年(1877)、長谷検校は熊本の本町2丁目池田露地の長屋に居を移し、その後も転居を重ね、山崎町(船場町慶徳小学校付近)を経て、正派邦楽会の創始者中島雅楽之都が通っていた大正5年(1916)頃には塩屋町(新町2丁目)に転居していた。
また、日清・日露戦争の煽りで芸事が下火になった時期を除いて、長谷検校は門下の三羽烏とも謳われた熊本の宮原八重之都(1851-1930)、八代の笹尾竹之都(1855-1938)、坂本陣之都(1856-1925)をはじめ、加藤智恵子、鳥居虚霧洞、若い赤星(後の船田)喜久らの精鋭を引き連れて県下を巡演し、門人の育成にも力を入れていった。またその非凡な腕前を知った人たちは、続々と長谷検校のもとを訪れるようになり、しばしば東京へも招かれて演奏にも行った。
こうして、九州の地歌箏曲の中心は久留米から、長谷検校のいる熊本へと移って行った。
長谷検校は、普段から義太夫節を愛好し、熊本で公演のある時は、弟子にも勧めては、「越路太夫はどうだった」とか「古靫太夫は?」「三味線は?」と質問しては「耳の修行」をさせたという。ある年、長谷検校は、上阪した際に文楽三味線の鬼才、二世豊澤団平(1828-1898)の演奏を聴いた。その撥捌きに驚嘆した検校は、早速楽屋に団平を訪ねて秘訣を聞いたところ、団平は「義太夫の三味線は一撥一撥が真剣勝負である。その一撥は最初でもあれば最期でもある。だから一撥一撥に生命を打ち込んでかからねば、人を動かすような音色は出ない」と教示した。この上阪時期は明らかではないが、団平の全盛時代だといわれているので、おそらく1870-80年代ではないかと推定できる。
その後も折を見ては大阪の団平を訪ね、地歌三味線の改良を手掛けるようになった。それまでは、地歌三味線は小ぶりで棹の細長い、いわゆる京都柳川流の三味線であったが、義太夫の三味線に影響を受けて、胴、駒、棹、撥の改良を試みたのである。また楽器と演奏者とが一体になる「胴づり」の仕掛けも考案。後には、東京にいた愛弟子の川瀬里子の手を経て、今日一般に普及している「九州三味線」と呼ばれる地歌三味線が確立していった。
一方、団平も地歌に造詣が深かった。長谷検校との出会いがそのきっかけとなったかどうかは定かではないが、明治12年(1879)10月に大阪大江橋座で初演された彼の最も有名な作品「壷坂観音霊験記」には地歌の名曲が取り入れられている。「三つ違いの兄さんと・・・」という名文句で知られる「沢市内の段」の語り出しには「夢が浮世か、浮世が夢か・・・」という地歌「ままの川」の冒頭部が歌われ、その後には「鳥の声、鐘の音さえ身に沁みて・・・」という「菊の露」や、観音様のご利益で、視力の蘇った沢市夫妻が喜んで小躍りする段切りには「万歳」を用いるなど、それぞれの曲が大変効果的に用いられている。
また、明治28年(1895)11月10日、熊本市内末広座(後の旭座)での東京富士松浄瑠璃一座(新内節の分派)の来演記録に「美須之都(長谷検校のこと)飛入出演」とあるのは見逃せない。ちなみに、初世富士松紫朝(1827-1902)は久留米の人で、地歌も、義太夫も演奏する盲人音楽家であった。この初世紫朝の没後、一時期二世紫朝を継いでいたのが、九州系地歌箏曲家の古賀城武(1860-1943)であった。
当時はジャンルを越えた交流が盛んに行われ、互いに刺激しあって芸を向上させていったのは素晴らしいことであった。
長谷検校の名演については、今更言うに及ばないことであるが、演奏中の姿勢が素晴らしかったことも語り草となっている。検校と懇意だった尺八家の田代政次氏が雑誌『三曲』に記した記事に拠れば、検校自身、色々と工夫して、まず、頭の上にお盆を載せて一曲弾く。そのお盆が落ちなくなれば、今度は、そのお盆の上に橙を載せ、それも上手く出来たら、次はお盆を取って橙だけを載せて一曲を完全に弾く、といった練習を積み重ねた結果だということだ。そして検校自身も「正しい芸は正しい姿勢からでないと生まれない」と常に仰っていたという。
そうした厳しい修行の極めつけは、寒稽古である。厳冬の最中、吹き曝しの物干し台で、横に水と塩を置いての稽古だったと聞く。三弦を弾く手が凍って感覚がなくなるまで弾く。それから、横に置いてある水に手を突っ込む。水には薄氷が張っているが、それを叩き割って手を入れるのだ。それでも、水の温度の方が手よりも暖かく感じるので、手の感覚が少し戻るのだという。もし、手がヒビ割れて血でも流れてきたなら、傍に置いている塩を擦り込む。三味線の棹が血だらけになることも珍しくはなかったそうだ。そうした修業の結果なのか、長谷検校の指先や爪は、とても堅かったそうだ。
こうしたことが「意志の天才」と謳われている所以である。検校が、才能や名声に溺れることなく地道に努力を重ねたことは「玉の台」のチラシを四千遍「数弾き」したことや、七日間蔵に籠って寝食を忘れて「青葉」を弾き通したことなどの逸話からも窺い知れる。
長谷検校は、もっぱら三弦に集中され、箏はお弾きにならなったようだが、「儂も今度は箏をやろう。是非もう一遍盲人に生まれてきて、今度こそ箏をみっちりと研究してみようと思うておる」とよく仰っていたそうだ。それを聞いた門人達は、顔を見合わせながら、「盲目をむしろ悦んで芸に身を捧げておられるとは、常人ではない」と囁きあったとのことだ。
長谷検校宅で、高弟の川島くに師から箏を習っていた福田菊子師の「思い出話」によれば、川島師が病気で箏が習えなかった時、長谷検校が「儂が教えてやるから」と仰って三味線で箏の手をすっかり弾いて下さり、爪の持って行き方まで教えて下さったことには、吃驚したという。
その上、長谷検校は熟達した腕を持ちながらも、作曲には絶対に手を染めなかった。
「新浮舟」「舟の夢」「宇治巡り」などの尺八の手付けはされているのに何故「作曲」がないのか、弟子たちは検校に尋ねたことがあった。すると「作曲というのは真似る事ではない。独創・発見が無くてはモノにならん」と仰り、さらに「儂だとで、まだ古典などの研究も足らず、むやみに作曲は出せるものではない。もう一度生まれ変わってきて、もっと研究を続ける。」と仰ったそうだ。
これほど厳しい姿勢の長谷検校ではあったが、涙もろい人情家でもあり、「修業時代の話をされる時には語りながら泣いておられた」こともあった、と中島雅楽之都師は記している。
その一方で、頑固で一徹な面もあったらしく、例えば、演奏会場が少しでもざわめいていると、三味線を前に置いたまま、いつまでも取り上げないし、座敷でも、演奏する周囲に余計な物が置いてあるのを極端に嫌がったそうだ。同様の話は、京物の名手の松浦検校の逸話にもある。両人とも、抜群の聴覚の持ち主であったようだ。
音色にもうるさく、常に最良の音が出るように心がけていた。そのためには、たとえ普段の練習であっても、必ず一曲ずつ新しい糸に掛け替えていたという。それでも稀に三の糸が切れた時には、器用な検校は平気で二の糸で弾き続けたという。それを知ったある人が、検校に「もう一遍、わざと糸を切って二の糸で弾いて欲しい」と注文したところ、「儂は曲弾きではない」と、きっぱり断られたという。そのくせ、興が乗ると、わざと切ったりもする剽軽な面もあったらしい。
また、検校の評判を聞いた金持ちの夫婦がお金を積んで「是非、いい演奏を聴かせて欲しい」と頼んだとき、検校はヘソを曲げて「金の多寡で私の音が違うと思っているのか」と激怒したという。