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長谷検校と九州系地歌

※この文章は、京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センター久保田敏子教授にご執筆いただき、これまでコンクールのプログラムに掲載したものです。

■もくじ
長谷幸輝について
1)九州系箏曲の源流
2)宮原検校一門
3)九州系箏曲地歌の東上

4)東京に出た九州系地歌箏曲家たち

5)九州系地歌の特色
6)九州系箏曲地歌家略系譜
7)九州系独自の地歌箏曲
7)九州系独自の地歌箏曲 2
8)九州系に至る地歌箏曲の系譜
9)長谷検校と九州系地歌
10)地歌箏曲の伝承について

東京に出た九州系地歌箏曲家たち

新首都東京の地歌箏曲界では、山田流箏曲が全盛であったが、九州から数多くの箏曲地歌家が進出した結果、東京では、目先の新しい九州系の地歌箏曲に衆目が集まった。主立った人々は以下の通りである。

松島糸寿(1843〜1925)

松島糸寿は、福岡藩士松島寿人の次女。宮原門下の大塚菊寿一に師事して、16歳で免許皆伝となった才媛である。1870年、東京に出て、いったん福岡に帰ったが、1882年から東京に永住して、天笠才寿、野坂操寿らを育てた。これが、九州系の東京進出の最初である。

高野茂(1847〜1929)

高野茂は、熊本の本田勾当の門人で、1884年に、東京の華族女学校の箏曲教師として赴任した。彼は国風音楽会を組織し、斯道の発展を図るために流派を越えた講習所開設を企画した。1893年に資金調達のための「名人会」を開催したが、これが、長谷幸輝(1842〜1920)の上京のきっかけとなった。彼は、いわゆる明治新曲の作曲活動も積極的に行ったが、中でも明治天皇の銀婚式を祝った「大内山」は、今でも人気のある作品である。門下に加藤柔子や、一時山下松琴にも師事し、佐賀の野田聴松に筑紫箏も学んで、近代詩による新箏曲を提唱して京極流の流祖となった鈴木鼓村がいる。

高野は晩年には郷里の鹿児島へ戻った。

山下松琴(1848〜1918)

山下松琴は、福岡の出身で、津久之一に手ほどきを受けたが、没後は宮原検校に師事し、1860年に師の名を次いで津久之一座頭となった。宮原の没後は兄弟子の高藤勾当に師事。胡弓や、明清楽も習得して、1879年に上京。1899年に富士講系の扶桑教の中に仁康教会を設立し、検校や勾当の職格を発行した。

長谷門下の三羽がらす

長谷幸輝の弟子には、中山里子、木谷寿恵、福田栄香の、「長谷門下の三羽がらす」と呼ばれた三人の女性の秘蔵っ子がいた。

まず最初に、中山里子(1873〜1957)が、明治33(1900)年頃から東京へ出て一時帰郷の後、1902年に再度上京し、1904年、尺八家の初代川瀬順輔と結婚。川瀬里子として東京に永住した。少し遅れて、師の長谷幸輝も、たびたび招聘されて上京している。1918年には木谷寿恵(1882〜1953)、1925年には福田栄香(1887〜1961)が相次いで上京した。

川瀬里子は、長谷から三弦を習得し、上京して吉田久子から名古屋系の生田流箏組歌を学び、東京定住後は、師の長谷幸輝の東京招聘に尽力して、九州系の地歌箏曲を東京に普及させるとともに、三弦師鶴屋の協力を得て、長谷の試みた三味線改良をさらに発展させ、一分五厘台で鳩胸の下がった現在最も普及している型の地歌三味線、いわゆる九州三味線を完成した。同時に、駒や撥も現行の型に改めた。門下には太田里子、阿部桂子、藤井久仁江らがいる。

木谷寿恵は、6歳から長谷の下で三弦を学び、沢野なつに8歳から箏を学ぶ。上京後は門下の育成に努めるとともに、雑誌『三曲』に、しばしば健筆を揮った。

福田栄香は、吉岡家から福田家の養女となり、幼少から長谷に三弦を、箏を島田ふさに学ぶ。尺八の三代荒木古童に嘱望されて上京。以後古童の共演者として活躍した。没後は嗣子福田種彦が継承した。

小出とい(1840〜1918)

小出といは熊本出身で、宮原門下の美之一に師事。美声で歌物が得意だったという。川瀬里子の世話で1905年に上京し門人を育てたが、1917年に帰郷した。東京での弟子には高野門下の加藤柔子や、米川琴翁がいる。

古賀城武(1860〜1943)

福岡出身。生後すぐに失明し、山田城清に入門後、宮原門下の村石光瀬之一と、同じく林検校正安一(箏組歌の名人と謳われ、「蜑小舟」の作曲者とも擬せられている)に師事した。1879年から10年間、新内節を富士松紫朝から学んで二世紫朝を襲名した。1914年から東京に出て、九州系地歌箏曲の普及につとめた。門下に笠原古都がいる。

米川琴翁(1883〜1969)

岡山の出身。幼少より姉の米川暉寿(中国系の葛原勾当の孫弟子。後に九州系の林検校門下の斉藤芳之一に師事)から手ほどきを受けた後、15歳で、芳之一に師事して箏曲を学ぶ。1905年に上京し、小出といに三弦を習う。

結婚後、一時姫路に移るが、1919年には東京に戻り、長男の米川親利や、佐藤親貴などの逸材を育てた。中尾都山や宮城道雄とも交流して、創作にも力を注いだ。

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