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長谷検校と九州系地歌

※この文章は、京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センター久保田敏子教授にご執筆いただき、これまでコンクールのプログラムに掲載したものです。

■もくじ
長谷幸輝について
1)九州系箏曲の源流
2)宮原検校一門
3)九州系箏曲地歌の東上
4)東京に出た九州系地歌箏曲家たち
5)九州系地歌の特色
6)九州系箏曲地歌家略系譜
7)九州系独自の地歌箏曲
7)九州系独自の地歌箏曲 2
8)九州系に至る地歌箏曲の系譜

9)長谷検校と九州系地歌

10)地歌箏曲の伝承について

九州系に至る地歌箏曲の系譜

九州系に至る地歌箏曲の系譜

三味線とその音楽の誕生
芸術的な三味線音楽の中で、最も早くに成立したジャンルは地歌である。この地歌では、単純な手法の積み重ねによる旋律に乗せて、当時の流行歌の断片を繋ぎ合わせて弾き歌った。これが「三味線組歌」で、最古の芸術的三味線音楽である。これは室内、つまり、非劇場用の音楽として成立した。三味線を用いた野外や小屋がけでの音楽は、遊女歌舞伎がこの三味線を採用した後に、急速に発展することとなる。
既述の通り、三味線という新たな楽器を工夫して誕生させたのは、当道座という組織に属していた盲目の琵琶法師であった。したがって、最初の三味線音楽は当道座に属する人達の手で育まれた。彼等の本業は、琵琶で『平家物語』を弾き語ることだったので、地歌も自ずから弾き歌いを原則として発達した。やがて、柳川検校(?~1680)という、名人が出て、柳川流という地歌の流派を興した。
同じ頃、当道座の八橋検校(1614-85)は、それ迄は、武家や貴族、僧侶といった上層部の占有物であった雅楽の流れを汲む箏を用いて弾き歌いをする「筑紫箏」から、一般の人でも手を染めることができる「箏曲」を誕生させていた。それは、八橋検校、もちろん、まだそんな名前ではない座頭時代だが、後に柳川検校となる座頭と並ぶ三味線の名手として知られていた若い頃に、一旗揚げようとして新天地の江戸に出た所、筑紫箏の創始者である筑紫善導寺の僧・賢順の門人が還俗して箏糸商を営んでいたのに偶々出くわした。そこで筑紫箏を知り、これを改善することによって、新たな箏曲を考案するに至ったのである。
この新箏曲は、弾き歌いの「箏組歌」と、歌の無い「段物」であったが、瞬く間に人々の間に広がって行った。幕府は、鍼灸・按摩・金貸といった家業と、平家琵琶・地歌・箏曲・胡弓の教授を当道座の専業として認可した。とりわけ、新しい地歌・箏曲は、広く一般の人々が、享受して楽しむようになった。
当道座で始まった地歌も箏曲も、奇しくも最初は、それぞれの楽器で弾き歌いをする「組歌」から出発したが、それらは、プロの職格を得るための必修曲となり、当道座で伝承されていった。しかし、箏組歌と三味線組歌とは、その成立の事情も異なることから、自ずと性格も異なり、絶対に一緒には演奏しなかった。
箏組歌の《菜蕗組》に合わせて演奏出来るようにとの思いで、19世紀になってから作曲された地歌《夕べの雲》を除いて、箏組歌に三味線を合わせたり、三味線組歌に箏を合わせたりすることは、現在でも絶対にない。
箏組歌の方は、楽箏の手法を取り入れた「トンレン トンレン テン」という「カケ爪」の音型が随所に用いられ、歌詞内容も王朝期の和歌を踏まえた雅なもので、しかも一歌が4句から成り、各句が16拍子(32拍。表間と裏間とで一拍子とする和風の数え方で、洋楽風に数えると倍の拍数となる)で、どの歌も64拍子(128拍)に整然と統一されている。これに対して、三味線組歌の方は、一曲の長さもまちまちで、歌詞の題材は卑近なものが多く、俗語がふんだんに使われていて、雅やかさに欠ける嫌いがある。その上、この新しい三味線は、これまでの楽器のように武家や貴族、僧侶といった占有者がいなかったことと、持ち運びに便利だったことから、瞬く間に庶民の心を捉え、愛玩楽器となり、芝居や舞踊とも結びついて人々の心を踊らせ、血を滾らせる存在となった。
また、それ迄は盲目の法師が琵琶や扇拍子に乗せて語っていた説話も、三味線に乗せて語られるようになった。中でも、矢作(現在の岡崎市)の浄瑠璃姫と源氏の御曹司義経との恋物語である《浄瑠璃姫物語》は大ヒットしたので、三味線での語り物と言えば「浄瑠璃姫」ということになり、ついには三味線伴奏の語り物音楽をまとめて「浄瑠璃」と称するようにもなった。その後、浄瑠璃は、優れた語り手たちの名前を取って「一中節」とか「河東節」とか、「義太夫節」、「常磐津節」、「清元節」、「新内節」といったジャンルも分派していった。中でも、人形芝居と結びついた義太夫節の三味線は、太夫の語り一つで登場人物から情景に至る迄語り別けて、人形を操らせる必要から、人物の心情までも表現する必要があり、繊細な響きは勿論のこと、どっしりとした重厚な響きと音量を求めて、棹を太くし、駒も大きく重く、撥も分厚くして、太棹と呼ばれる現行の三味線が工夫された。
一方、歌舞伎芝居の中の舞踊音楽として、あるいは効果音楽として誕生した歌い物の「長唄」も、絢爛豪華な舞台を彩る楽器として、遠くまで届く華やいだ音色が求められ、棹を細くし、駒も撥も軽くし、現在細棹と呼ばれる楽器が工夫された。それに対して、お座敷用の楽器として発達した地歌三味線は、江戸後期に部分的に改良され、明治になって九州で長谷検校が本格的な改良を試みる迄は、今、柳川三味線と呼んでいる江戸時代初期の柳川検校以来の小ぶりの三味線を守り続け、薄い小さな撥で練る様に弾き、決して胴皮に打ち付けたりはしない奏法を守ってきた。今も京都ではこの柳川三味線が大切に伝承されている。

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