ホーム > 長谷検校と九州系地歌 > 地歌箏曲の伝承について
※この文章は、京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センター久保田敏子教授にご執筆いただき、これまでコンクールのプログラムに掲載したものです。
- 三味線の歴史は、同じ弦楽器でも千年以上の歴史を誇る箏や琵琶に比べて、たかだか四百数十年で、半分以下にも満たない上に、その成立事情については謎だらけである。
- 昨年のプログラムでも述べた通り、三味線の開発に関わったのは当道座という幕府の保護組織に属していた『平家物語』を弾き語る盲目の琵琶法師であった。その人は石村検校(?~1642)とされ、何らかの縁で、三味線作りの名匠として知られる石村近江家と繋がっているとされている。現在、東京都港区三田の大信寺(俗称三味線寺)には、歴代の石村近江の墓があり、由来を記した田辺尚雄氏による碑文がある。
- 石村検校が創り出した三味線組歌は室内で弾き歌いする最初の芸術的三味線音楽で、当道座に所属する盲人音楽家たちに伝えられた。
- 京都の上層階級の町人であった藤本(畠山)箕山が著した色里の百科全書『色道大鏡』(1678年序)に拠れば、寛永(1624~44)の初め頃、摂州(大坂)で加賀都(かがのいち)と城秀(じょうひで)という若い二人の座頭が三味線の名手として評判になっていたという。恐らく石村検校の弟子か、孫弟子であったに相違ない。
- しかし、城秀の方は思うところがあって新天地の江戸に下った。彼はその江戸でたまたま立ち寄った箏や琵琶の糸を商う店で、当時は貴族や僧侶などの上流階級の楽器で盲法師などは触れることも出来なかった箏の音楽に出逢った。それは筑紫箏(つくしごと)と呼ばれる寺院箏曲であった。筑紫の善導寺でこの音楽を大成した僧賢順の弟子・法水が何らかの事情で還俗して江戸に出て糸屋の主人になっていたので、城秀座頭はこれを修得することが出来たのである。
- この城秀座頭こそ後の八橋検校である。彼は、故郷磐城の平藩の藩主で文化人としても知られた内藤風虎一の庇護の下で、一般の人の耳には馴染み難い雅楽風の音階による筑紫箏の調弦に半音を加えた新たな調弦「平調子」を考案したり、新手法を工夫したりして、庶民でも手にすることの出来る箏曲を開拓した。これが、今盛んに行われている箏曲の始まりである。
- しかし彼は、三味線の演奏を止めたわけではなく、徳川家康の孫・結城秀康の五男・松平直矩(なおのり)が書き残した生活日記『松平大和守(やまとのかみ)日記』の寛文2=1662年の条には、八橋検校を屋敷に呼び寄せ、彼の作った箏組歌や、石村検校から伝わる三味線組歌の数々を演奏したことが曲名と共に記されている。この後、八橋検校は京都に戻って、新箏曲の普及に努めたが、金閣寺(鹿苑寺(ろくおんじ))の住職・鳳林承章の日記『隔蓂記(かくめいき)』の寛永14=1637年の条には、八橋検校から三味線の演奏を聴いた記録が残っている。
- ともあれ八橋検校は、当道座で新箏曲の普及に努めたようで、「八橋流」を称する優秀な箏曲の弟子が育った。特に下記の5名は重要人物である。
(1)根尾検校:この人の弟子からは「萩八橋流」が生まれたが、今は廃絶している。
(2)城追座頭:この人の弟子筋は優秀で、大阪の新八橋流に繋がる人材が育った。しかし、残念ながら近年はその伝承者を確認できていない。
(3)吉部座頭:この人から薩摩八橋流を経て、現在の沖縄箏曲に繋がっている。
(4)隅山検校:この門からは継山検校が出て、継山流を興した。継山流は現在にも伝わっていて、江戸時代の末からは芸名に富の字の付く富筋と、菊池検校の系統の菊池派菊筋とに継山流箏曲が伝承されている。人間国宝の二世富山清琴師の箏曲はこの継山流である。
(5)北島検校(?~1690):この人は優秀で、最晩年の1年間、当道座の統括機関である当道職屋敷の最高責任者・第34代職検校になっている。箏曲の他、三味線は勿論、平家琵琶にも堪能で、万治・寛文年間(1658~73)は江戸で活躍していたらしく、前述の『松平大和守日記』にその演奏記録が登場する。 - 北島検校は八橋検校の偉業に改革を加えたようであるが、八橋没後の僅か5年後に没しているので、その遺志は門人の生田検校(1656~1715)に受け継がれて、現在生田流として伝承されている。とは言え、長い年月の間には様々に枝分かれして、大阪系の古生田流や正派邦楽会の系統の新生田流の他、京都系、宮原検校や長谷検校らの九州系、中国系、名古屋系等の生田流各派と山田流が分派していった。