ホーム > 長谷検校と九州系地歌 > 九州系独自の地歌箏曲 2
※この文章は、京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センター久保田敏子教授にご執筆いただき、これまでコンクールのプログラムに掲載したものです。
前回からは、九州系独自の作品について紹介している。前回は、作詞者・作曲者とも不詳ではあるが九州系の地歌箏曲の祖師とも言える宮原検校孝道一(1807〜64)が伝えていた「蜑小舟」と、その宮原検校が自分の師匠である田川勾当を追善して作曲した「水の玉」とを紹介した。因みに、熊本の誇る長谷幸輝検校はこの宮原検校の孫弟子にあたる。今回は、「尾上の松」と「四季の夢」を取り上げる。
- <四季の夢(しきのゆめ)>
- 【歌詞】 糸桜、結ぶ契りは初花の、色紫の杜若、浅沢水の浅からぬ、心も燃えて(現行は見えて)行く蛍、袖に包めば玉と見て、月の光も目映きに、舟さし連れて寄る岸の、松の木陰に白妙の、雪の中道諸共に、寒さを知らで様々と(現行はに)、思ひ渡せる夢の浮き橋。
- この曲は京都の松浦検校久保一(?〜1822)が、作曲した地歌の「二上り端歌物」であるが、稀曲である。明治3=1870年11月の序文のある京物の歌本『新うたのはやし』に、初めて歌詞が掲載され、作詞は御堂上方、つまり高貴な身分の女性の作、と記されている。因みに、松浦検校の「四つ物」と言われる代表作の「宇治巡り」「四季の眺」「深夜の月」「四つの民」は、既に文化9=1812年の『増補大成糸のしらべ』という大阪系の歌本に揃って載っていて、その後の歌本類でも取り上げられているのに対し、この曲は、前掲の『新うたのはやし』以外には、見当たらない。筆者は、疾っくに廃絶した曲と思っていたが、宮城会の芦垣美穂師が演奏されているのを聞き、この曲の存在を知って大変驚いた。芦垣師の楽譜には、昭和55=年5月8日の日付と共に、「この譜の原譜は九州の家庭音楽会にあったもので、かなり昔に松井スマという盲目の女師匠の演奏を採譜したものと聞いている。」と記されている。この松尾スマに長年師事しその後宮城会に所属した井上綾子氏が伝承されていたようである。 地歌箏曲のメッカとも言える京・大阪の地では伝承されず、九州の地で細ぼそと伝承されていたのは、恐らく、当道座の取締機関であった京都の職邸で、八重崎検校や菊岡検校らとの交流を通じて、或いは晩年の松浦検校からも直接仕入れた新曲を、九州の地で、大切に伝承していたからであろう。同様のことが、今ではすっかり人気曲となっている「尾上の松」にも言える。
- <尾上の松(おのえのまつ)>
- 【歌詞】やらやらめでたやめでたやと、歌ひ打ち連れ尉と姥、その名も今に高砂の尾上の松も年経りて、老の波も寄り来るや、木の下蔭の落葉かくなる迄、命永らへて尚何時迄か生の松、千重に栄えて色深み、箏の音通ふ松の風、太平楽の調べかな。〈手事〉 豊かに澄める日の本の、恵みは四方に照り渡る、神の教への跡垂れて、尽きじ尽きせぬ君が御代、万歳祝ふ神神楽、御神火の前に八乙女の、袖振る鈴や振り鼓、太鼓の音も笛の音も、手拍子揃へて潔や。〈手事〉 あら面白や面白や、鎖さぬ御代に相生の、松の緑も春来れば、今一入に色増さり、深く契りて千歳経る、松の齢も今日よりは、君に曳かれて万代の、春に栄えん君が代は、万々歳と舞ひ歌ふ。
- この曲は恐らく、文化=1804~18年間に上方で作曲されたと思われるが、作曲者は不詳である。前述の通り、九州で大切に伝承されてきたが、数ある上方の歌本類には一切登場していない。この曲が世に出た切っ掛けは、東京で宮城道雄(1894〜1956)が、大正8=1919年に長谷検校の弟子の川瀬里子(1873〜1957)の演奏を聞いて感激し、箏の手を付けて翌年の作品発表会で披露したことにあった。極めて技巧的で華麗な箏の手によって、人々を魅了し、今では腕の立つ演奏家の憧れの曲となっている。別途、この曲に付けた途箏の手には、佐世保の田中通年(1896〜1934)が大正14=1925年に作曲したものがあり、九州系の奏者に伝えられている。宮城の手に競べ、些か地味ではあるが、本手の三弦が際立つように工夫されている。三弦は本調子で出て、最初の手事で三下りとなり、中歌で本調子に戻り、後歌から二上りと変化する。箏の手もそれに応じて変化する。
- この曲の歌詞は、能「高砂」の謡を踏まえながら播州高砂の尾上の松の長寿に因んで、平和な御代が永遠に続くことを願い祈っている。歌詞には雅楽の祝賀曲「太平楽」の曲名や八乙女の神楽舞等が歌い込まれ、「楽三段」ともいわれる前の手事には雅楽風な手も折り込まれていて、高雅で厳粛な中にも高雅である。後の手事は二段とチラシから成り「神楽拍子」ともいわれる。さらにもう一挺三弦を加えて「神楽地」を入れる演出もある。