ホーム > 長谷検校と九州系地歌 > 九州系に至る地歌箏曲の系譜
※この文章は、京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センター久保田敏子教授にご執筆いただき、これまでコンクールのプログラムに掲載したものです。
前回までは、九州系独自の作品について紹介してきたが、今回は、地歌箏曲の流派と芸脈の概略を紹介しながら、このコンクールに参加される皆様が受け継がれている芸脈にも関心を寄せて頂くとともに、現在第一線で活躍されている九州系の演奏家諸氏の芸脈とのつながりにもに関心を寄せて頂ければ幸甚である。
- (1)地歌の流派
- まず、地歌(上方で誕生した三味線の弾き歌いによる室内楽)は、1560年代に琉球から伝来したか、あるいは琉球に行って入手した三線(さんしん)を改良して、現在の三味線の祖型を創り出したとされる石村検校(?-1642)に始まる。彼は、当道座(男性盲人による職能団体)に属する「平家語り」の琵琶法師で、三線を琵琶の撥で試奏して改良し、琵琶を参考に奏法を編み出し、それに乗せて、当時民間で流行していた「小歌(こうた)」の文句を、適宜つなぎ合わせて歌い始めたとされる。これが「三味線組歌」と呼ばれる最古典の地歌の誕生である。
- 石村検校の詳細は不明ながら、江戸時代の文書類に断片的に記された諸説を総合すると、大納言久我(こが)敦通の子の通世を父に持つ梅津少将(梅渓中将とも)と、琉球の兼城按司の娘との息子で、豊前(福岡県)の石田村で生まれたという。曾祖父の久我敦通は『閑吟集』に次ぐ中世の小歌集成として知られている『宗安小歌集』を浄書した人物でもあり、当道座を管領していた久我家所縁の人物でもある。一説には、石村は弟と共に琉球に渡り、自身は音曲を学び、弟は楽器製作を習得したとされ、本土に帰ってからは大阪の堺で、弟は楽器改良に、兄は組歌の作曲に励んだとういう。因みに、弟の子孫が三味線造りの名人石村近江だという。いずれにしても少々出来すぎた話で、石村の来歴については権威付けのために捏造された可能性もある。
- その後、弟子の虎沢検校と共に築き上げた組歌は7曲あり、これを基本の手という意味で「本手」と称した。その「本手」7曲を受け継いで整理し、さらに発展させたのが、石村の弟子とも孫弟子ともされる柳川検校(?-1680)である.彼は、箏曲の祖・八橋検校(1614-85)と同時代を生きた人で、彼の系統を引く地歌の流派を「柳川流」と呼ぶが、現在は京都にだけ伝承されている。しかもこの流派だけが、祖型の三味線に近い「柳川三味線」と呼ばれる古態の三味線を使用している。祇園の芸妓さんたちも使っているが、棹の細い、少々小振りの楽器で、平家琵琶の撥に近い小型で薄い撥を用いる。これに対して、今一般に用いられている地歌三味線は「九州三味線」と呼ばれている。長谷幸輝師の改良に由来する命名である。
- 柳川検校は、「本手」を破る手、例えば左手で弦を弾く手法などを盛り込んだ組歌を作曲して「破手組」と称した。世間で言う人目を引く華美な様子を形容する「派手」の語源となる用語である。その後、柳川検校の孫弟子の野川検校(?-1717)に至って、さらに編集され組歌32曲が「野川流」として現在迄伝承されている。
- 現在の地歌の流派は、柳川流と野川流の二系統だけで、京都系の演奏家以外は全て野川流ということになる。ただし、正確にいうと、この二つの流派は三味線組歌の流派であって、組歌を伝承していない地歌箏曲家の芸系の所属は、現在では箏曲の芸脈に拠って区分している。
- (2)生田流の芸脈
- 地歌も演奏する現行の箏曲の流派には、継山流、生田流、山田流がある。継山流は、始祖八橋検校から→隅山検校→継山検校と伝えられた流派で、富山清琴師らの富筋と一部の菊筋が伝承している。
- 一番多い生田流は、八橋→北島検校→生田検校と伝承された流派で、生田検校の弟子米山検校から直接伝わる生田流は「古生田流」と呼ばれ、中島絃教師や菊原初子師らの芸系に伝承されている。宮城道雄師の芸脈もこの古生田流に属する。
- 一方、生田検校→倉橋検校→安村検校へと伝承された生田流は、安村の弟子達によって、さらに細かい芸系に分かれていく。安村→石塚検校→大塚勾当→田川勾当→宮原検校(1807?~64)へと伝えられた芸脈が「九州系生田流」であり、安村→石塚の後、市浦検校を経た系統は、「大阪(新)生田流」と呼ばれ、九州系とは血の濃い芸系である。この芸脈には楯筋や中筋があり、中島雅楽之都師を経た正派もこの流れに属する。
- 安村→河原崎検校に伝えられた系統は、「京生田流上派」で、萩原正吟師、山口琴榮師らに繋がる。
- 安村→浦崎検校→八重崎検校の系統は「京生田流下派」である。さらにこの八重崎検校の弟子松野検校と光崎検校からは、葛原勾当を経て「中国系生田流」となる。
- また、安村→久村検校からの流れは吉沢検校を経て「名古屋系生田流」となる。
- さらに、安村→長谷富検校からは、江戸の医師で『箏曲大意抄』の著者である山田松黒を経て「山田流」が誕生する。